始まりましたツーワンブログ。今回も前回に引き続き運送業の歴史をパート3としてお届けいたします。
さて早速ですが前回からの続きで守貞謾稿(もりさだまんこう)をお届けいたします。
著者は喜田川守貞。その方が記した著書が守貞謾稿(もりさだまんこう)といい、当時のシステムが具体的に書き記されています。
江戸 – 京坂(守貞は京都に住んだことがないそうなので、大阪の意とのこと)を結ぶ飛脚のうち最低料金のものを「並便り」と呼んだそうで、日数の保証はなく。おまけに運行は昼間のみだったそうで、使い勝手はイマイチだったのだろうと勝手に予想(笑)
また駅馬の閑暇を利用して運行する関係上、片道概ね30日を掛ったそうで、これより急ぐ場合は、10日掛る「十日限」(とおかぎり)、6日掛る「六日限」又は「早便り」というものが、あったそうで、東海道の運行量増加と相まって各宿での滞貨が増大し、それぞれ2〜3日の延着が当たり前になってたとの事。
この厳しい状態を何とかしようと、江戸~上方を6日間で走ることを確約した定飛脚が登場。
「定六」または「正六」と呼び、超ハイパーウルトラお急ぎ便の場合は「四日限仕立飛脚」が組まれることがあり、料金4両(今の価値で52万円。1両=13万円)との事で、今ほど便利でもない時代でも相当過酷な仕事であったんだろうと・・・ (||゚Д゚)ヒィィィ! (((( ;゚д゚)))アワワワワ
また、この様な飛脚に便乗させる形で書簡を託すことも可能だったそうで「差込」(さしこみ)と称したそうです。
運賃2〜3分(1分金が4枚で1両なので、13万円÷4=3.25万円なので6.5~9.75万円くらい十分お高い!! ヒィィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ タ、タカイ!!)だったとの事。
この様な便乗は当時としては概ね普通のことだといいます。
以下Wikipediaさんから抜粋させて頂きましたのでご参照ください。
江戸時代の日本の飛脚については『駅逓誌稿』、日本通運『社史』などが基本文献である。研究論文に関しては藤村潤一郎による論文・翻刻の業績数が群を抜く。国内外の通信の歴史については星名定雄『情報と通信の文化史』(法政大学出版局)がある。日本の飛脚研究は、近年の高度情報社会を背景に情報史の領域で扱われる傾向にある。
さて、運送業の歴史パート3まで主に飛脚を記してきました。次回からは江戸時代以降の近代の運送業として郵便に関して書こうかなと^^;
次回!「郵便配達員は命がけ!撃鉄に籠る熱い想い!!」ジョークですww
ジカイモ ゼッテーニミテクレヨナ!!(・∀・)